こんにちは、あもん です。
みなさんは嫌いな人っていますか?
ほとんどの人が「いる」と言うと思いますし、ネットニュースを見ていても「この人嫌い」と思う人は少なからずいることでしょう。
そういう嫌われる人たちって多分、
自分勝手で
他責思考で
口先野郎で
ネガティブで
自己中心的で
言い訳ばっかりで
自分の非を認めない
これらが当てはまるような人たちは、いわゆる「悪い行為」をしているはずです。悲しいですが、悪い行為をする人は世の中にたくさんいます。
ただここで、僕には1つ疑問が生まれました。
いわゆる「性善説」「性悪説」のようなお話ですね。
正解はないので自分がどういう理由でどう思うのか、という話なんですが、僕の持論は少し特殊です。
まず結論から書くと、
これが僕の持論です。
悪の赤ちゃんは存在しない
試しに、今頭の中で赤ちゃんをイメージしてみてください。お子さんが近くにいる方は、お子さんの顔を覗き込んでみてください。
その思い浮かべた赤ちゃんって、悪い企みを持ってそうですか?「親を困らせてやろう」と思って生きてそうですか?
そんな赤ちゃん、見たことも聞いたこともないですよね。
むしろ、お母さんお父さんが笑顔になることを望んでいませんか?親が笑うと、無邪気に同じことを繰り返しませんか?
このように、赤ちゃんは「誰かを困らせよう」なんてことは思っておらず、むしろ「人の笑顔って心地よい」という風に感じている可能性が大きいんですよね。
赤ちゃんは善意を持って生まれてくるけど、悪意を持って生まれてはこない。
これが僕の今の最適解なんですが、ここでまた疑問が浮かんできます。
そしてこの問いこそが、「 性善説、【 だけど人間は弱い 】」の部分になります。
性善説は「人間は、生まれつき善い心を持っていて、環境によって悪に染まる」という考え方で、
性悪説は「正義や道徳は、教育によって身につけるもので、人間の本性は悪だ」という考え方です。
「あなたは良い人でありたいですか?それとも悪い人でありたいですか?」
ランダムにアンケートを取ったら、恐らく99%方の人が「良い人」を選ぶことでしょう。しかし、そんな良い人を選ぶ99%の人たちも善い行いを率先してはやりません。
いや、厳密に言うと「やれません」
なぜなら
善行には「自分を律する強さ」が必要であり、ほとんどの人がその強さを持ち合わせていないからです。人は生まれがらに善い心を持っていますが、弱くて脆いので感情や欲望、他人に振り回されて善い行いができず、むしろ悪い行いをしてしまうんです。
でも、あなたが過去に善い行いをしたときのことを思い出してみてください。
友達に誕生日プレゼントをあげた。
困っている人を助けてあげた。
相手の笑顔のために行動した。
気持ちよくなかったですか?「また善い行いをしよう」と思いませんでしたか?
本能的に、善の行いは心地よいんです。でも弱さに負けてしまうから悪い行いに走ってしまうだけなんです。
相手を許せるようになる価値観
「性善説、だけど弱い」という感覚を持ち始めると、自分自身が変わっていく感覚を掴めるようになります。
というのも、この価値観を持ち始めると人に対する怒りが弱くなっていくんです。
なぜかというと、たとえば僕が「こいつ嫌な奴だな」と思ったとしても、
「 その人は望んで悪い奴になっているのではなく、弱くて仕方なく悪い行いをしてしまっているだけなんだ。」
と思えるようになったからです。未熟だからその行為をしてしまっているだけで、本人も本当は望んでいないはずなんですよ。
望んでいないけど、コントロールできずに悪い行いをしてしまっている。これは言ってみれば本人も困っている「かわいそうな状態」なんです。
そう捉えると、相手に対して許しの心が芽生えやすくなったんですよね。
あなた自身も
あなたの親も
あなたの子どもも
あなたの友達も
見ず知らずの人も
できることならみんな善い行いをしたいはずです。でも心が弱いから、体が弱いから、だから悪い行いをしてしまうだけなんです。本人も望んでいないんです。
この感覚を心の片隅に持っておきながら日々を過ごしてみてください。心が柔らかくなるはずですから。
決して「相手が望んでその行為をしている」とは思わないこと。コツとしては、
・もしも相手がお金も時間もあって、仕事も楽しくて、家族仲も良くて、趣味も充実してたら、その行為をしているか?
・本当はしたくないけど、何かが上手くいっていなくて、心や体をコントロールできないからやってしまっただけなんじゃないか?
・自分も何かの調子が悪いと、心や体をコントロールできなくて悪い行為をしている。そのときの自分の苦しみと同じなんじゃないか?
という問いを自分に立ててみてください。その問いこそが、あなたと相手を救ってくれますよ。

