こんにちは、あもん です。
僕は相互責任論というのを推しています。
『いじめも通り魔も乳幼児虐待もひき逃げも、すべて互いに責任があります。』
というスタンスを貫いています。意味がわからないですよね笑
この話をするためには、まずは「責任とはなにか?」という定義から話さなければいけません。
まず【責任】という言葉ですが、これは元々は「何かに対して応答すること、応答できる状態」からきた言葉であり、
「責任の概念は、他のことを意志できること、少なくとも意志したとおりの行為を為すことができるという意味での自由意志の概念を前提としている。」
と定義されています。簡単に言えば「自分の行動には〝それを選んだ責任〟が伴うよ。」ということですね。
すべてに〝選んだ責任〟がある
多くの人が責任という言葉を「法的、倫理的」な面だけで捉えていますが、僕は少し違います。
まず、僕らは生きているだけで周りの人に何かしらの影響を与えています。自分がそこに存在しているだけで知らず知らずのうちに影響を与えているんですよね。
見ず知らずの人たちで電車の席が埋まっていたら「座りたかったのに座れない」という負の感情が生まれるじゃないですか。これは「そこに座ってた人たち」がいることで生まれる感情であり、誰か1人でも座っていなければ生まれなかった感情です。
これが「存在しているだけで誰かに影響を与えている」という一例です。
そして、この負の感情が生まれたことでその先に起こす行動が変わる可能性があります。
モノゴトはすべて繋がっており、「今までの行動があるから今があるという事実」を揺るがすことはできません。
あのとき行ったスタバがドトールだったら…
あのとき電話一本かけていたら…
あのとき「ありがとう」と言えていたら…
今の自分、環境じゃない可能性は全然あるんですよ。
これをバタフライエフェクトと言います。
「蝶がブラジルで羽ばたくことで、アメリカで竜巻が起こるかもしれない」というように、小さな変化が大きな出来事につながる可能性、という意味です。
そしてさらに言えば、自分の変化によって相手の人生も変わっていくんです。自分だけの話じゃないんですよね。
病まない、成長を止めないための考え方
こういう話をすると「そうすると全部に自分の責任もあるからメンタルが病む」という解釈をされる方もいますが、
同じように「良いことも自分の影響がある」ということを忘れてはいけませんし、悪いといってもあくまでも0.1%なので「ほぼ悪くはないけど要素はあるよね」くらいの感覚で捉えていいんです。
悪いことだけではなく良いことも当然お互いの影響なんですよね。相手が全面的に良いとしても、自分にも良い影響を与えた側面があるんです。
0:100でモノゴトを考えてしまうと、相手が100のときは「自分は一切直すところがない」という風に判断してしまいます。逆も然りで、自分が0だと全部自分が悪いと抱え込んでしまうんですよね。
「存在論的責任」
この感覚を持っていると常にどちらにも責任が乗っかってくるので、抱え込みすぎず、放棄しすぎなくなります。
人はどうしても抱え込みすぎたり、他責にしすぎてしまう傾向がありますが、存在論的責任でモノゴトを捉えると『この世界はすべてグレーゾーン』なんですよね。
出来事はすべていろんな問題が複雑に絡まって生まれます。
シンプルだと思うかもしれませんが、深く掘り下げるとそんなことはないんですよね。
例えばコロナのケースですが、多くの人が医療と経済の観点からしか判断しません。
しかし実際、コロナの問題は医療と経済に加えて
倫理問題
政治問題
財政問題
外交問題
世間問題
などなどが関わっていますよね。コロナという問題において、僕らから見えている世界と菅元総理から見えている世界はまったく違います。
こんな感じでモノゴトはとても複雑に関わっているので、どれか一つが完璧に悪いという結論には繋げられないんですよ。
いじめもそうですが、そもそもいじめというのは「いじめる側といじめられる側」だけの問題ではなく、そのいじめを作り出した空気感やいじめが作りやすくなっているシステムの問題もあります。
そしてこれは僕ら大人が作りあげてしまった空気感なので、ある意味では「いじめというものが生まれている現状」に関しては僕らも当事者なんです。
ここを「いじめる側といじめられる側」だけの0:100で考えるのは安易なんですよ。だからこそ責任はグレーゾーンで、グラデーションで考えるべきであり、そこには「存在論的責任」を当てはめた方がいい、と思っているんですよね。
自分の存在の影響を考える
先ほど書きましたが、責任というのは「自分の行動には〝それを選んだ責任〟が伴うよ。」ということです。
いじめも虐待も通り魔もひき逃げも、そこに居合わせたのは「過去の自分の行動」によって引き起こされたことであり、そこにいることを選んだ責任が伴うんですよ。
だから僕は『すべては相互責任』という主張をしています。
あもんは「存在論的責任」という観点で捉えていて、普通の人は「法(倫理)的責任」の観点で責任というものを捉えている。だから解釈にズレが生まれるんです。
前提の違いですね。
もちろん「法(倫理)的責任」という観点で見れば100:0というものは存在します。しかし、「存在論的責任」という観点で見たら100:0は存在しません。
なぜなら自分がそこに存在しているだけで誰かになんらかの影響を与えているし、その場にいることを選択したのは紛れもなく過去の自分だからです。
しかしだからこそ、間違ってもこの価値観を「法(倫理)的責任」として見てはいけません。それとこれとはまた別物ですから。
あくまでも「自分の存在が相手にどんな影響を与えたか」という観点で見ているだけです。
だからあもんの考える責任の幅には『0.1:99.9 ~ 99.9:0.1』まで細かく分けられるんですよね。
・自分の方が悪いけど、相手はどこが悪いんだろう
・相手の方が悪いけど、自分はどこが悪いんだろう
という感覚でどちらの責任にも目を向けるんです。
「自分の存在はこの人にどんな影響を与えているか?」
この感覚を持って生きることで「どうすればいい影響を与えられるか?」という思考になるので、その都度自分の立ち振る舞いを最適な形に持っていきやすくなります。
仕事でも恋愛でも、この世界で生きるには必ず他人と関わらなければいけません。
そんなこの世界で「他人に対して自分の影響を考えられる人」は、当然周りから重宝されます。
人生が上手くいく人は他人に対する自分の影響を当たり前のように考えているんですよ。だから自然に努力し、自然に成長し、自然に結果が出て、自然に周りから好かれるんです。
逆に言えば、「自分の存在はこの人にどんな影響を与えているか?」をちゃんと考えて実践していけば人生はどんどん良くなっていく、と言っても過言ではないんです。
すべては相互責任という感覚を持ち、自分が他人に与えている影響を考える。
まずはこの〝感覚〟を日々意識して無意識レベルまで身につけていきましょう。

